忍者ブログ
跡地。
| Admin | Write | Comment |
カウンター

キッズgooはじかれサイト同盟
◆リンク用バナー

1人1日1クリック
プロフィール
HN:
Rabenschwarz
性別:
男性
自己紹介:
メールアドレス:
anti-jasrac_2007jlp★mail.goo.ne.jp
(送る時は、★を@に変えて下さい)
バーコード
ブログランキングリンク

人気ブログランキング 週刊ブログ王
年代別ブログ図鑑

人気ブログランキング ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
ブログ内検索
最新コメント
[05/27 汐里]
[05/21  寺田隆夫]
[04/17 エディ]
[03/02 kei]
[12/25 yns]
[12/25 行方不明者774号]
[12/21 Rabenschwarz@管理人]
[12/20 sawa]
[11/11  ]
[11/11  ]
カレンダー
10 2017/11 12
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

 山形で桜が見頃となる時期は、4月下旬から5月上旬である。4月27日、汗ばむ位の気温の中、雨を警戒しながら撮影<つい>でに花見に行った。場所は霞城公園こと山形城址公園と、光禅寺。(碑文は後日撮影)
 一緒に説明するのもアレなので、今回は山形城址公園の方から。(行ったのは後だが)
 所で、山形城址公園と光禅寺には共通するキーパーソンがいる。多くが知るとおり、<>の人こそ鮭様奥羽の驍将として知られる、山形藩初代藩主にして最上氏第11代当主の最上義光(1546~1614)公である。大河や某肥ゲーから知った者から見れば、戦国DQN四天王の集大成である伊達政宗(1567~1636)の伯父であり、DQN眼龍を誇張し美化せんが為、架空の人物である中野義時との兄弟喧嘩(※注1)、根本資料の存在しない遠縁の国人の謀殺捏造(※注2)等、意図的に<おとし>められた最大の犠牲者である。
 後継者が育たなかった欠点はあるにせよ、伊達家への隷属状態から独立し、北楯堰・因幡堰等の開発で米どころ庄内の基礎を作り、最上川水運整備・寛大な検地・城下町の経営・職人への諸役免除等、僅か一代で東北最大の城下町を築き上げ57万石の大名へ伸し上がった功績は、伊達や上杉が比肩出来るレベルのものではない(※注3)
 <もっと>も強引に事業を進めれば、領主への反感と一揆は必至である。然しながら、最上義光の治世下では臣下や領民に深く慕われていたせいか、一揆は全く発生していない。甥の伊達政宗が領地拡大と安定した経営の為に、葛西大崎一揆や和賀忠親一揆を煽動した事実と較べれば、どちらが英邁<えいまいな名君であるか判断に難く無い。



 改易されたが故に、現代に至るまで其の人格や功績を不当に扱われ続けている最上義光公だが、其の功績や事実に基づいた逸話を逐一書き記すには、記事1つどころか、200<ページ>程の本1冊でもまだ足りない為、そろそろ話題を山形城に移す。
 山形城は最上家代々の居城として、1357年に最上家初代当主斯波兼頼(最上兼頼)(1315?~1379)に築城され、慶長年間に城郭を拡大して城下町を整備し、国内では5番目、東北では最大の城である。三の丸の広さは2,350,000m2で、現在霞城公園として知られる城址公園は二の丸址と本丸址である。
 特徴は、<>れだけ巨大な城郭にも関わらず、天守閣が一切存在しない事である。此れは山形城拡張の際、義光が領民の負担を軽減する為、平城では防衛上意味の無い構造物である天守を作らない、との英断に拠るものである。
 其れでも、2,350,000m2もの広大な三の丸は、最上家57万石(実質石高100万石以上)だからこそ維持出来た話であり、改易以降の度重なる藩主交代でその巨大な城郭を持て余す様になって来た。秋元家6万石(1767~1845)や水野家5万石(1845~1870)の時代に至っては、本丸は更地と化して御殿類は全て二の丸に組み込まれ、三の丸は門や城郭の整備も儘ならずに荒廃し、特に西側一帯は田畑と化していた。要は、失脚し左遷された連中に扱いきれる代物では無かったのである。

本丸と二の丸を繋ぐ橋の上より

 本丸と二の丸を繋ぐ橋の上より撮影。石垣、空堀、橋と桜を全部入れようとしたら、空堀が端で塞がれて立体感が乏しくなってしまった。欲張り過ぎたのかも知れない。

本丸と二の丸を繋ぐ橋の上より

 本丸と二の丸を繋ぐ橋から身を乗り出すようにして撮影。空堀との遠近感を捉えるのに何とか成功。

奥羽の驍将、最上義光公と共に

 桜の木をバックに、ナポレオンスタイルの最上義光像を撮影。…の筈なのだが、此方<こちら>側では桜の木も映える様な高い所が無く、桜が空気と化してしまった。携帯での撮影による限界か。

山形城跡公園(霞城公園)のお堀に映える桜

 二の丸石垣より堀に向かって枝を伸ばす桜を撮影。今回撮った中では一番の成功作と思っている。

最上義光公像傍らの碑文

 後日撮影した碑文。以前はマクロ解除を忘れて撮影した為、文章が判別出来ずに断念。何とか文章が判別出来ると思う。

(※注1)…中野義時の名前が出て来るのは大正時代で、其れ以前の講談にすらも出て来ない。恐らく、モデルは伊達政宗の弟の伊達小次郎(1568?~1590)であろう。
(※注2)…天童頼澄(頼久)(?~?)は1577~1584年に天童城が落城してから伊達家へ落ち延び、東根頼景(~1581)は家臣の里見源右衛門の裏切りで非業の死を遂げ、楯岡満英(?~1580)は天童氏側に付いて最上義光と戦って自害、上山満兼(武衛義政/里見満兼)(~1580)は重臣・里見民部の内応により討ち取られた。義光が直接手を下したのは白鳥十郎長久くらい。有名な『血染めの桜』も大正時代の創作で、中野義時の捏造とほぼ同時期である。
(※注3)…因みに義光の義理の兄弟の伊達輝宗(1544~1585)は、親子で家督を争った伊達晴宗(1519~1578)と政宗の間に挟まれてインパクトに欠け、治世が僅か7年と短く其の死に際しか有名になっていない上、博物館でも資料や逸話が乏しい非常に気の毒な常識人である。

<関連リンク>
(最上義光関連)
最上義光と山形城と天守・いい話
鮭様と伊達家の使者
最上義光資料館
(霞城公園の桜関連)
★霞城公園・・・桜★
霞城公園の桜 2011 VOL.5
霞城公園の桜

拍手[0回]

PR
この記事へのトラックバック
この記事にトラックバックする
≪ Back  │HOME│  Next ≫

[140] [139] [138] [137] [136] [135] [134] [132] [133] [131] [130]

Copyright c 漆黒ノ軍皇。。All Rights Reserved.
Powered by NinjaBlog / Material By Mako's / Template by カキゴオリ☆
忍者ブログ [PR]